地域紹介

このページでは、春木小学校(はるきしょうがっこう)のある大阪府(おおさかふ)と岸和田市(きしわだし)についてかんたんに紹介(しょうかい)しています。
大阪府(おおさかふ)について
大阪城(おおさかじょう) 通天閣(つうてんかく)
大坂(おおさか)は、昔(むかし)から『難波(なにわ)』とよばれ、古代日本(こだいにほん)の中心地(ちゅうしんち)でした。大坂(おおさか)には、瀬戸内海(せとないかい)を通(とお)り大和(やまと)の国(くに)と朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国(ちゅうごく)とを結(むす)ぶ『住吉津(すみのえのつ)』や『難波津(なにわつ)』などの港(みなと)がおかれていました。また、孝徳天皇(こうとくてんのう)や聖武天皇(しょうむてんのう)の時代(じだい)には、難波宮(なにわのみや)がおかれ、日本(にほん)の政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)となりました。
大坂(おおさか)という名前(なまえ)が歴史(れきし)の中(なか)で始(はじ)めて使(つか)われたのは、1496年に浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開(ひら)いた蓮如(れんよ)が書()いた文章(ぶんしょう)です。蓮如(れんよ)が大坂(おおさか)とよんだ辺(あたり)りは、古(ふる)くは難波(なにわ)、浪速(なみはや)とよばれていた地域(ちいき)で、今(いま)の上町台地辺(うえまちだいちあた)りのことです。蓮如(れんにょ)は、今(いま)の大阪城(おおさかじょう)の辺(あた)りに、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の寺(てら)である大坂御坊(おおさかごぼう)(石山本願寺(いしやまほんがんじ))をつくり、浄土真宗(じょうどしんしゅう)を広(ひろ)めました。そのころからこの辺(あた)りは、大坂(おおさか)とよばれるようになりました。この辺(あた)りには、大(おお)きな坂(さか)があったため「大坂(おおさか)」とよぶようになったとか、もともとこの辺(あた)りを「オサカ」とよんでいたことから「大坂(おおさか)」とよぶようになったなどの説(せつ)があります。
その後()、織田信長(おだのぶなが)が石山本願寺(いしやまほんがんじ)との戦(たたか)いで勝()ち、石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に織田信長(おだのぶなが)の家臣(かしん)である豊臣秀吉(とよとみひでよし)が1583年、大阪城(おおさかじょう)を築城(ちくじょう)しました。しかし江戸時代(えどじだい)の初(はじ)めには、江戸幕府(えどばくふ)が豊臣氏(とよとみし)を滅(ほろ)ぼすために大阪城(おおさかじょう)を2度()にわたり攻()め立()てました。(大坂冬(おおさかふゆ)の陣(じん)、大坂夏(おおさかなつ)の陣(じん))その後()江戸幕府(えどばくふ)は大坂(おおさか)を天領(てんりょう)とし、各藩(かくはん)の蔵屋敷(くらやしき)には水路(すいろ)を使(つか)って年貢米(ねんぐまい)が運(はこ)ばれるようになりました。そし大坂(おおさか)は、年貢米(ねんぐまい)のほかにも日本全国(にほんぜんこく)から様々(さまざま)な物(もの)が集(あつ)まるようになり、「天下(てんか)の台所(だいどころ)」とよばれるほど栄(さか)えました。
明治時代(めいじじだい)に入(はい)り、明治政府(めいじせいふ)は1868年大阪府(おおさかふ)をおきました。もともと「大坂(おおさか)」という漢字(かんじ)が使(つか)われていましたが、「坂(さか)」という漢字(かんじ)は、『「土(つち)」に反(かえ)る(死()ぬ)』という意味(いみ)にもつながるということで、縁起(えんぎ)が悪(わる)いとされ、「大坂(おおさか)」は「大阪(おおさか)」という漢字(かんじ)が使(つか)われるようになりました。
現在大阪府(げんざいおおさかふ)は、約(やく)1897平方(へいほう)キロメートルの面積(めんせき)を持()ち、人口約(じんこうやく)884万人(まんにん)、東京都(とうきょうと)、神奈川県(かながわけん)に次()ぐ、日本第(にほんだい)3の都市(とし)となっています。
古墳時代(こふんじだい)ごろの大阪周辺(おおさかしゅうへん)
(淀川資料館展示資料(よどがわしりょうかんてんじしりょう)を撮影(さつえい)
史跡(しせき) 難波宮跡(なにわのみやあと)
大阪府(おおさかふ)についてもっと知()りたければ、下(した)のページをクリックしましょう。
 『大阪府(おおさかふ)について調(しら)べよう』