インドの様子 |

|

|
デリーの繁華街チャンドニーチョウク |
ダージリンの町並み |
インドの面積は、約328万平方キロメートルで世界で第7位の広さです。人口は、約12億人で、中国に次いで世界で2番目に人口が多い国です。人々の中には、さまざまな民族の人々がいて、多くの言葉、多くの宗教があります。主な言葉だけで15もあるインドでは、政府が発行する紙幣には17の言葉が印刷されています。
インドは、世界の4大文明の中の一つであるインダス文明が、紀元前2000年頃にインダス川を中心として発達しました。その後さまざまな王国がインドを治めましたが、1870年頃に、インドはイギリスの植民地となり1877年には、イギリス領インド帝国となりました。その後第2次世界大戦が終わるまで、インドはイギリスに治められましたが、1947年8月15日に、宗教がちがうパキスタンと2つに分かれて独立しました。
デリーは、インド北部の大都市で、人口は約1300万人、ニューデリーとオールドデリーの二つに分けられます。昔はオールドデリーだけでしたが、イギリスがインドを治めていた時に、首都としてニューデリーが建設されました。ニューデリーの中に、ニューデリー行政区があり、ここにインドの首都機能があります。かつては、インドの首都はニューデリーでしたが、現在ではニューデリーもデリーという都市の一部となってしまっているので、学校などでは、現在インドの首都はデリーであると教えることが多くなっています。上の写真のチャンドニーチョウクは、オールドデリーのメイン通りです。チャンドニーチョウクには、大小様々な店が建ちならび、たくさんの人々が買い物などに訪れます。
ダージリンは、インドの西ベンガル州の中心都市です。人口は約11万人で、標高約2000mの場所にダージリンがあり、世界で三番目に高いカンチェンジュンガという山が遠くに見えます。ダージリンはインドの平野部に比べると涼しい気候で、イギリスの植民地時代には、インドに住むイギリス人の避暑地として栄えました。ダージリンといえば、ダージリンティーという名前の紅茶で世界的に有名です。また、インドの平野部とダージリンを結ぶダージリン・ヒマラヤ鉄道は、1999年(平成11年)に、ユネスコの世界遺産に登録されました。
|

|

|
ダージリンのお茶摘み |
展望台で一息つくダージリン鉄道 |

|

|
ムンバイの巨大な洗濯場ドービーガート |
ムンバイのマクドナルド |
ムンバイは、インドの西海岸に面するマハーラシュトラ州の中心都市で、インド並びに南アジアを代表する都市です。人口は、約1366万人と世界の中でも大変人口が多い都市です。ムンバイにある港は、インドの中でも有数の港で、インド全体の海上貨物の半分以上がこの港を使っています。ムンバイには、インドの多くの会社の本社や外国の会社のインド支店などが集まり、インドの経済の中心地となっています。ムンバイは、1995年までは英語での呼び方であるボンベイでしたが、それ以後は、現地のマラーティー語の呼び方であるムンバイとなりました。またムンバイには、インドを代表する高級ホテルであるタージマハールホテルもあります。
上の写真のドービーガートは、ムンバイのマハラクシュミ地区にあるムンバイ最大の洗濯場です。ドービーというのは、インドのカースト制度という身分制度の中で、洗濯することを仕事とする家に生まれた人々のことです。このドービーガートには、洗濯した洗濯物を炭を使ってアイロンをかけるアイロン屋さんもあるそうです。
ゴアは、インド西海岸の都市で、16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領でした。現在人口は、約134万人です。インドがイギリスの植民地となった後も、ゴアはポルトガル領の都市として、「東洋のローマ」と呼ばれた時代もありました。1986年(昭和61年)には、日本を訪れたフランシスコ・ザビエルの墓があるボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院などが、ポルトガル時代のキリスト教建築としてユネスコの世界遺産に登録されました。
バンガロールは、インド南部のカルナータカ州の都市です。デカン高原の南のマイソール高原にあり、標高は約900m、人口は約616万人で、インド第三の都市、世界第27位の都市です。バンガロールは高原にあるため、気候はおだやかですずしく、『インドのガーデンシティー』と呼ばれています。また、バンガロールには、ウィプロ、インフォシス・テクノロジーズなどのパソコンのソフトを作る会社が集まっています。そのために、バンガロールは、『インドのシリコンバレー』と呼ばれています。
インドの学校制度は、6才から11才まで5年間の初等教育、11才から14才までの3年間の前期中等教育、15才から18才までの4年間の後期中等教育となっています。インドの教育は古くから伝統のあるものですが、小学校が少なかったために1950年(昭和25年)には、小学校へ入学する児童数は310万人しかいませんでした。そのため、文字を読んだり書いたりすることができない人も多くいました。そこで、インド政府は貧しい子ども達も学校へ通えるようにたくさんの小学校を建てました。1950年(昭和25年)には、22万校しかなかった小学校が、1996年(平成8年)には、3.5倍の77万校にもなりました。2002年度には、小学校に通っている児童が全体の約82%でしたが、インド政府は2010年には
100%にする目標を立てています。
|

|

|
ゴア近くの町の中学生 |
バンガロールのテクノロジーパーク |